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きになるひとものの仮置き小屋
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http://proto.harisen.jp/index.html
・高橋修・編 『熊野水軍のさと-紀州安宅氏・小山氏の遺産-』 清文堂出版株式会社 2009
・中世東国の太平洋海運

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http://yaplog.jp/muro-kumano/category_5/
1、土國軍艦遭難記念碑御臨港幸

 光栄の第三日はいや朗らかに明け渡れば、東天瑞雲たなびきて、海面を渡る朝風いとも心地よく、今日を御名残と海岸さして集いよる民草は底ひも知れぬ皇恩に讃仰の涙を覚ゆるのみであった。
 
 この日午前八時といふに、陛下には早くも供奉員を従へさせられて御召艦上に出御、供奉、御警衛の各艦から選抜せられた海兵、及び大井乗組の海軍兵学校生徒等のカッターレースを、御興深く天覧あり、特別の御思召を以て乗組員全部と祈念御撮影の後、午前十時御召艦に御移乗、二隻の供奉艇を従へさせ給い樫野崎を発御あらせられた。

 御召艦は小波を蹴って午前十時十五分、樫野中之浦桟橋に着御、侍従長、海相、侍従武官長以下諸員を従へさせられて御上陸、桟橋南方に諸列奉迎せる、野手知事以下縣係員並びに新聞記者等六十余名及び、稍〃進ませられては樫野浦海岸に跪座奉拜せる、約貳千の村民に御曾釋を賜いつヽ、勾配急なる山峡の坂道を畏くも御徒歩にて進ませ給ひ、午前十時三十分日土貿易協會理事長山田寅次郎以下役員四名奉迎裡にトルコ軍艦遭難記念碑前に御着き遊ばされた。

 樫野崎の東岸脚下百数十尺の断崖に、激しては雪と碎くる狂瀾千古の恨を傅へ、點々たる野花一片の哀愁をそヽる處約五十坪の芝生に立てられた碑に向はせられて、御擧手の御曾釋を賜ひ、異郷の藻屑と消えたる土國使節オスマンパシャ以下五百八十一名の英霊を弔はせ給ひ、今日は海波も静かなる大洋を御眺望、御感慨深き御気色に拜せられた。


http://monookibeya.3rin.net/hoge/NewEntry/
朝貴神明宮由緒書

 和歌山懸西牟婁郡潮岬村大字出雲字向地生五十八番地 村社 朝貴神社

 一 祭神 大己貴神

 一 由緒

大職冠鎌足男伊美麿二十五世孫兼倶長禄二年熊野三山参詣之途次於口熊野出雲浦蒙出雲國清地大社神霊夢則同大社勧請祭祀出雲浦朝貴神明宮是也                                                                                   
                                       長禄二年九月吉日

   (昭和57年8月30日午後0時35分、社伝原本を書写)

 藤原鎌足の息子である伊美麿(中臣伊美麿は一時鎌足の養子となっていた)から25代の子孫である吉田兼倶が、長禄二年熊野三山参詣の途中に、この出雲浦で出雲の国の清地大社(現須賀神社)の神霊を夢に見て、出雲浦にその神霊を勧請したものがこの朝貴神社である、と

 出雲清地大社(現須賀神社)の主祭神は、須佐之男命であるが、朝貴神社の祭神は大己貴神となっている

 しかし明治4辛未年七月、串本町役場蔵、江田組戸籍人口諸役給料社寺等明細表によると

 出雲浦 朝貴神明社 祭神 素盞男命、と記されている 

 平成七年発行の和歌山懸神社誌によると、

 社伝に長禄二(一四五八)年大職冠藤原鎌足公の嫡子伊美麿から二十五代の裔神祇大副卜部兼倶が熊野参詣のとき出雲国より勧請し創建という。ところが紀伊続風土記は「伊勢大神宮の摂社磯辺の神を祀るという」考えをとっている

 と、社伝とともに、文化三年(1806年)から編纂され始めた紀伊続風土記の説を併記している

 長禄二年に兼倶が、熊野三山を参詣したかどうかを知らないが、兼倶24歳のこの頃、官位が昇進している 


・http://www.tanami-chinoto.com/
・田並小学校閉校記念誌「ちのと」




http://www.jf-wakayamahigashi.jp/kushimoto/sub04.html

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